2013年03月28日

「 にわとりの日 」に読む 『 あなたみたいな 明治の女 』 by 群 ようこ


こんにちは、また来て下さってありがとう。

3月28日は「 にわとりの日 」です。


日本養鶏協会が 毎月の28日を「にわとりの日」に制定。

それでは、にわとりが登場するお話を・・・・・



はい 今日の読書は 『 あなたみたいな 明治の女 』

著者: 群 ようこ  朝日新聞社   朝日文庫


( 注:“ 女 ”には “ ひと ”とルビがふられています。)



著者は あなたも 多分ご存知の 群ようこ氏です。

最近では 映画 『 か も め 食 堂 』 の原作で 知名度が上がったかな?


派手なベストセラー作家とはいえなくとも、根強い 固定ファンをお持ちの方。

肩書きは作家・エッセイストなんだけど、 自分としては、

この方はエッセイ(読書エッセイ等)の方が お上手ではないかと考えています。


はいはい、異論は認めますよ〜


また、群氏のお得意ジャンルとして外せないものに 評 伝 があります。


『 贅 沢 貧 乏 の マ リ ア 』 は 森鴎外の長女・ 森 茉 莉 (1903〜1987)を

テーマにしたものですが、群氏の評伝を読んで 森茉莉に興味を持って

読み始めた方も多いのではないかしら?



群氏は文学賞のようなものは 受賞してはおられないようだけれど(多分)

彼女には、そんな賞は必要ないと思うし(良い意味で、ね)

第一、賞を貰わないとやっていけないという作家ではないから。



作家にとっては、読者からの支持が 一番の賞だと思うしね。

多分、御本人も欲しがってはおられないような気がするなぁ。

まあ、くれるのなら貰っておきますというスタンスかもしれないけれど・・・




賞だけは、やたらと貰って且ついろいろな文学賞の 審査員をやっていて、

その癖 まともな読解力もなく ピントのずれた 批評をしている

おセレブ w 気取りの作家さんもいるから・・・まあ、誰とは言いませんが ww




おっと いけない・・・話を元に戻しますね。



さて、この作品集は、評伝集です。

タイトルに、明治の女(ひと)とあるように、明治時代に生きた

8人の女性( 有名・無名の )たちの評伝です。



で、その中で 取り上げられている一人が

高 群 逸 枝 (1894〜1964)

社会学者、というよりは民俗学者と呼んだほうがいいかな。


著作としては『 母系制の研究 』や『 招婿婚の研究 』などの 女性史ものが多い。

「青踏」の平塚雷鳥とも親交があり、女性運動に携わってきた方。


昔々の若き日に、ほんの少〜しだけ高群逸枝の『招婿婚の〜』を

読んだことがあるけれども、もう忘れてしまった・・・

レポートを作成するための資料としてチョット齧っただけだし。



さて、高群 逸枝は 熊本県出身で、父親は小学校の校長先生。

父親の影響や勧めもあってか 師範学校に入学したけれど 病気で1年で退学。

その後は普通の女学校に転入して卒業しています。

学歴といえば、それだけ。


もちろん、進学率の低い戦前、ましてや女子の場合は 

女学校に入学する人も少なかったけれど。



ただ、仕事の功績を考えれば もっと高等教育を受けたように思っていたので・・・

つまりは独学で独自の研究を成し遂げた人なのね。


「 世 間 並 み こ の 言 葉 呪 わ れ て あ れ 」と家制度を 強烈に批判した人でもあります。



群氏は、高群逸枝を採り上げるにあたり、注目したのは 彼女が

なんと「 鶏 日 記 」をつけていたこと ww

「鶏日記」といっても、単なる 飼育日誌ではなく、あくまでもペットとしての「 鶏日記 」・・・



そう、高群 逸枝は鶏をペットにしていたの。



なので、この評伝集の中でのタイトルは


高群 逸枝 『 愛 鶏 日 記 』 www



何となく 虫が好かない人でも、その人が 動物好きだとわかると、

ちょっと見直すことがある。


また、無口で 無愛想な男性が、飼い犬や飼い猫に対して、目尻を下

げて話しかけているのを見たりすると、へえっと驚いたりする。


( あなたみたいな明治の女:高群逸枝 より冒頭抜粋 )



あー、分かります分かります。こういう気持ちは。

群氏は “ しいちゃん ”という猫と同居中の 愛猫家ですから、

こういう動物好きな人には親しみを覚えるのでしょうね。



さて、群氏は古書店の目録で高群逸枝の全集を見つけて購入、何気なく

見ていたら 日記・随筆の中に『 愛鶏 日記 』を見つけたそうです。



高群逸枝夫婦がヒヨコを飼い始めたきっかけは、タンパク質の補給のため。

鶏を飼って新鮮な卵を産んでもらうためだそうです。


そういえば昔は、結構 普通の家でも庭で飼っているお家が多かったなぁ・・・

卵はお店で買うと(当時は)高価だったからね。



鶏を飼おうと提案したのは夫の 憲三氏。逸枝は手間がかかると賛成はしなかったようですね。

丁度そのころ『 招婿婚の研究 』を書き出した頃で多忙だったし。

けれども夫は逆に、逸枝にとっては生き物を飼う事が精神的に良いのではと考えたみたい。



昭和25年3月21日、お隣の娘さんの世話で白色レグホンのヒヨコが1羽

高群家にやってきました。このとき 逸枝は56歳。



で、その日のうちにこの 鶏 に 名 前 を 付 け ち ゃ っ た の よ

あ〜あ、ダメダメ、名前を付けたら・・・情が移っちゃうんだよね。

しかも、名前が「ブーコ」だよ、 「ブーコ」!



それを「ブーコ」と名付けるところから、

二人の 生き物に対する気持ちがあらわれている


(一部抜粋)


ブーコは雌鳥ですから、卵を産んでくれます。


ブーコが初めて生んだ卵を、二人してうれしく感動して眺め、そして

「 ブーコ給与の 卵やき 」を作る。卵を生んでくれるブーコ。

逸枝は 仕事の合間を縫って、鶏のことを日記に書きつけた。


(一部抜粋)


元々 高群夫婦は 動物好きだったようですね。

( 二人の間には、息子が一人いたのですが死産でした )



で、このブーコだけではなくもう1羽飼う事になります。

今度の鶏の名前は「プーコ」  さらには「ノンコ」 ww


後になっては「タロコ」に「ジロコ」・・・笑ってはいけませんよ ww



かつて 逸枝は 有島 武郎とある女性との 情死事件 に関して、

美化されたり 哀悼の言葉を受 けたりしたことについて、


「 世 界 か ら 馬 鹿 が 一 人 減 っ た 」


と書いたという。確固とした自分の意見、自意識 を持ち、

学者として 十何年も調査を続け、女性史に関して誰もができない

研究をしている 彼女の本来の姿である。

しかし、ブーコちゃん、プーコちゃん、ノンコちゃんと鶏に優しく

呼びかける彼女もまた、高群 逸枝なのである。


(一部抜粋)



ここを読んで、私は 内 田 百 (1889〜1971)を思い出しました。

夏目漱石 門下にして 当時としては最高のインテリ先生も、

ペットのには弱かったようで ww


『 ノ ラ や 』 は涙なくしては読めない 猫 好 き の 必 読 書 ww ですから。



犬であれ猫であれ、はたまた鶏であろうともペットの可愛さは同じ事。

第三者の目からみれば愚かとしか言いようがない事でも 御本人は大真面目です。

人間よりは 寿命の短い鶏たち、逸枝は亡くなった鶏 の供養も、

人間と同じようにきちんとすませています。 なんと、お葬式まで・・・

友人からは 弔電まで届いたとか・・・それ程可愛がっていたのでしょうね。



特に子供のいない夫婦の場合、生き物が子供のかわりになっている

のではないかといわれることがある。


(中略)

子供とはまた 別の存在 だと私は思う

(一部抜粋)

子供はどんどん成長するが、生き物は年をとっても、飼い主の手から

離れるということはない。子供はそのうちに自立していくが、生き物は

そうはいかない。生まれてから亡くなるまで、責任を持って 面倒を見なければならない。



(一部抜粋)



高群逸枝は 1964年の6月7日に没しましたが、鶏たちとの関わりについて こう記しています。



< けっきょく私はおぼれたけれど、彼女たちと十数年ともに生活して


得るところがひじょうに多かった >


(一部抜粋)


そうか、頭の良い女性だけに 自分自身が “ おぼれた ”という自覚は

ちゃんと持っていたわけですね w



逸枝は、鶏たちとの関わり合いについて、

< 愛 は 理 屈 で は な く 存 在 で あ る >と書いている。


(一部抜粋)


愛は 理屈ではなく 存在である・・・・・

群氏は 高群 逸枝のこの言葉を 的確にキャッチしました。


まさしく、人間とペットたちとの関係を凝縮したような言葉だと

感じさせる一文じゃないかしら?




『 あなたみたいな明治の女 』には 他に7人の女性たちが取り上げられていますが、

いずれも存在感のある女性ばかりです。


印象的だったのは 森鴎外の母親

良妻賢母を絵に書いたような母親ではありましたが

嫁姑 問題に悩まされた人 でもありまして・・・



あとは小林信子(1873〜1906)という 普通の主婦の 日記が 興味深かったかな。

明治時代の サラリーマンの妻 として生きた方なのですが、

当時の東京の 中産階級の暮らしぶりが 具体的によく分かります。

日記は、息子さんが両親亡きあとに見つけて出版したものとか・・・・・



それでは、今日はこれでおしまい。

また明日ね。



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2013年03月27日

「さくらの日」に読む 『 桜 の 樹 の 下 に は 』 by 梶井 基次郎


こんにちは、また来て下ってありがとう。


3月27日は「さくらの日」です。


日本さくらの会が 桜への 関心を高めるために 咲く(3×9=27)の

語呂合わせと 桜の時期が 重なる日を「さくらの日」として

制定しました。



桜ですから・・・関連した本、テーマとなった本、桜の花が重要かつ

美しいシーンの作品は多いけれど・・・昨日のトピックスに挙げた

渡辺淳一氏にもヤバイ程よく似たタイトルの作品があります。


宮部 みゆき氏のファンならば 『 天 狗 風 』 のラストシーンを、

京極 夏彦氏のファンであるならば 『 絡 新 婦 の 理 』の初めと終わりの

シーンを思い起こすでしょうよ。

『 細 雪 』 の平安神宮でのお花見シーンも忘れがたい。



小説ではなく、ぐっと時代を 遡れば平安朝の 和歌にも山ほど有るし。

奈良時代以降は“ 花 ”といえば“ 桜 ”のことだったのね。


現代の日本語でも  お 花 見 = 桜  という暗黙の了解があるからね。

他の花の場合は、名前をつけて“ 梅見 ”とか“ 菊見 ”と呼ぶ ( と思う )



花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に

もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ


もう少し後の時代だと、西行法師のこの歌も人気があるかな。

願はくは 花の下にて 春死なむ  そのきさらぎの 望月のころ


まあ挙げてゆけばきりがないけれども、やはり真打に登場してもらいましょうよ。



掌編ではありますが、強烈なインパクトを持つ作品を・・・・・ ・



はい、今日の 読書は 『 桜 の 樹 の 下 に は 』  著者: 梶井 基次郎


またまたまた 梶井 基次郎です。

桜 の 花 ”といえば、梶井作品のこれです(キリッ)


坂口安吾の『 桜の森の満開の下 』も考えましたが、実はこの作品も

梶井基次郎にインスパイアされて書かれたものですから。




とにかく、第一行目のインパクトが凄すぎる・・・・・




桜の樹の下には 屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも

見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。

しかしいま、やっとわかるときが来た。

桜の樹の下には 屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。


(一部抜粋  有名な 冒頭部分です)



この作品の 内容云々以前に 冒頭 第一行目が一人歩きしてしまった感さえ

有るほどの有名な第一行目・・・・・



どこで 誰から 聞いたのか 覚えてもいないけれど、何故かこのセリフは

知っている・・・という方は多いと思う。


試しにYAHOO 知恵袋 とか 教えて!goo などで検索すると

「桜の花の下には死体が埋まっている」という言葉の出典を問うものや、

なぜそう呼ぶのか、どうしてなのかを問う質問がかなりあるから。


出典は知らなくとも耳にした経験や( 引用などで )読んだことがあるのでしょうね。

伝説であるとか 昔からの言い伝えであるとか、甚だしきは一種の

都市伝説ではないか、とか ww・・・



誰もが この一行目を聞いたら忘れられないようですね。

で、なぜ 忘 れ ら れ な い か、というと・・・・



単にインパクトがあるだけではなくて、ひょっとしたら

私もあなたも・・・そして多くの人が

共 感 し て い る 部 分 があるんじゃないかしら?


全面的な共感とまではいかずとも、ああ、そういう面もあるかも?

と思わせるような怖さ・・・・・



毎度のことですが 異論は認めます。



3月24日の「 檸檬忌 」に梶井基次郎の『 檸 檬 』を採り上げたけれど、

その中でこう書きました↓


>ならば、彼は理系の眼でもって

>誰にも見えないものを凝視していたのでしょうか?

>その眼には世界がどのように写っていたのでしょう・・?



一応クエスチョンマークをつけて 疑問形にしてはいますが

この質問の答え、 多分あなたはもう見当がついていると思うよ。



そう、まさしく “ 死 ”そのもの と思っていいかもしれない。



特効薬のストレプトマイシンが発明される前、結核といえば死病として

恐れられていた。


特に、若年層に感染しやすいことから「亡国病」とも呼ばれた時期もあった位。

梶井 基次郎にしても、子どもの頃から病弱で 祖母は結核、弟は9歳のとき

脊椎カリエスで死亡、お兄さんも 結核性リンパ線炎に苦しんだ人。

自身も18歳位のときにはもう結核に感染していたようだし

結局はそれで死んでしまうのだけれど・・・・・



現代のように 医療技術が進歩していない時代には、

若くして病死する人も 今以上に多かった・・・



敢えて、言い換えれば 死がもっと日常的に身近に存在していた

しかも、殆どの人が病院ではなく自宅で亡くなっているためか

身近で死そのものを見る機会も今以上に多かったはず。


死との親和性が高かったというべきか・・・・・



桜が “ いさぎよく死ぬ ”ことの代名詞 になったのは江戸時代から

“ 花は桜木 人は武士 ”一休禅師( 室町時代の人 )の言葉からの解釈で、

戦争中は特に強調されていたよね。



なので、この第一行目についての“ 桜の花 ”そのものの 連想としては

素直な( なのか? )感想だと思うよ。




しかし、全く別の意見を持つ人もいます。


評論家の小川和佑氏は著作『 桜の文化史 』の中でこう主張しています。


梶井はさくらに死を見たのではない。

咲き極まったさくらに生の輝きの極点を見たのだった。

自身の日々に衰えてゆく生命に対して、生命の輝きを見せる世古峡

のさくらに激しい憧れを抱いたからこそ、彼はさくらに死を見たのだ。

これは彼の逆説だろう。


(一部抜粋  ん? 誤植かと思わせる部分も?)



---散るさくらに生命の際を見るという、江戸時代以来の桜観を梶井

の場合は突き抜けているのだ。その桜観はひとたびは俗に堕ちたさ

くらをもう一度、聖なる花に回復させた。彼の桜観は死のさくらのそれではない。

繰り返すようだが生の極みとしてのさくらだった。


(一部抜粋)


節操なく思うけれども、この意見にも うなずける部分はあるよね

満開の桜は “ 生 の 極 み と し て の さ く ら ” には違いないので・・・・・



でも、その満開の桜が求めるものは・・・即物的に考えれば 肥料。

そして、人間の**ならば、さぞかし高級な有機質肥料でしょうよ ww



ちょっとグロくなったので話を変えましょう。


ねえ、あなたは 桜の花って 素朴に不思議な花だと思ったことはないかしら?

桜の木は 落葉樹だから冬場は葉が落ちているし、花の時期以外は目立たない。

地味な 普通の樹木としか思えないよね。


普段は何食わぬ顔をしていながら、年に一度だけ 満開の花を咲かせるのさ。

ごく短い時期に、あっという間に花開いて一週間ももたずに散ってしまう・・・・・



で、当然の事をいうようだけど、植物にとっての ”花 ”の 意 味

あなたもよく御存知だと思うな。



植物にとっては“ 花 ”は生殖のための器官。つまり、次世代再生器官。

その美しさで 虫や鳥を呼び込み、受粉させる・・・

目的を達したら、もう用無しになって花びらは散り枯れるだけだし。



新しい 生命を 産み出すために 咲き、そして 枯れる( 死 ぬ )

すべての植物にとって“花”の役割はそうしたものです。

見た目が 美しいか 地味目かは ともかくとしてね。



で、ふたたび 桜です。


日本人の好きな花のNO・1 がダントツで桜らしいの。

NHKの 放送文化研究所が 2007年に行った 調査の結果では

“ 花 ” “ 樹木 ”ともに桜がトップだったみたい。


もちろん、この調査は最新のものではないし、季節によっても差が

あると思う。


桜の開花時期なら(多分)桜がポイント高いだろうし、

梅雨時のあじさいも捨てがたい。 もっと他の花が好きな人も多いと思う。



けれども、仮にどんなアンケートをとっても、桜がかなりの確立で

上位に入ると思うの。


( ちなみに、この時のアンケでは 桜の次が チューリップ・薔薇・

コスモス・ひまわり・梅・蘭 と続きます )



文字通り、桜が日本の花の代表選手ならば・・・・・



桜の花は 日本人にとっては・・・生 と 死 を 象 徴 す る 花 なのかもしれない。


私たちは 潜在的にその事を知っていて、だからこそ

梶井のあの 第一行が忘れられない のかもしれないね・・・・



長くなり過ぎるから 今日はこの辺で終わりにしましょうね。


でもでも・・・最後に一行だけ・・・・・・


桜 の 花 は ・・・・・あ な ど れ な い ww


はい、これで本当におしまい

また明日ね。






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2013年03月26日

「 鉄幹忌 」に読む 『 君も雛 罌 粟 われも雛 罌 粟 』 by 渡辺 淳一


こんにちは、今日も来て下ってありがとう。


3月26日は与謝野 鉄幹の忌日(命日)「 鉄 幹 忌 」です。


与謝野 鉄幹(1873〜1935)本名は寛。


歌人にして、明治33年 新詩社を起こし 「 明 星 」 を創刊。 日本の近代浪漫派の 旗手と呼ばれた人物。


石川啄木や 北原白秋を世に送り出した功績があります。

時代に先んじたジャーナリスティックなセンスの持ち主でもありました。

1921年には建築家の西村伊作や妻とともに文化学院を創設。

著書には詩歌集「東西南北」など多数あります。


しかし、今 鉄幹といっても・・・


その歌を諳んじられるのは 余程 短歌に詳しい愛好家に限られるでしょうが・・・

一般的に知られた 鉄幹の 歌はというと・・・・↓コレかなぁ・・



♪妻をめとらば才たけて  みめうるわしく なさけあり♪


♪友をえらばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱♪


(一部抜粋 現代かな遣いに直しています)


今、この歌を愛唱されるのは相当 御年配の方でしょうか。

戦前の 旧制 第三高等学校の 寮歌として愛唱されたものが 

一般に広まり歌われるようになりました。(作曲者は不詳)



しかし・・・鉄幹の最も有名な肩書きは “ 与 謝 野 晶 子 の 夫 ”


与謝野晶子(1878〜1942)本名は志よう。日本の近代歌壇に燦然とその名を残し

「情熱の歌人」と呼ばれました。短歌のみならず、近代文学史上屈指の

女性であるともいえます。


浪漫派の歌人として数々の歌を残し、反戦歌としても名高い

「 君 死にたまふことなかれ 」でも知られています。源氏物語の日本語訳の

功績もあり、彼女の歌は今でも教科書に採り上げられているほど・・・


この二人は芸術家同士の夫婦・・・ではありますが、


21世紀の今、その実績を見ると 随分と“ 格 差 婚 ”っぽいような?


はい 今日の読書は 『 君も 雛 罌 粟 われも 雛 罌 粟 』

著者: 渡辺 淳一  文藝春秋社  文春文庫 

注:「 雛 罌 粟 」には フランス語の“コクリコ”とルビが打たれ

与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯とサブタイトルが付けられています。  



著者の渡辺淳一氏については、あなたもよく御存知の有名作家。

映画化・ドラマ化された作品も多く、センセーショナルに性愛を

テーマとした作品も多く人気のある方です。


『 君も雛 罌 粟 われも雛 罌 粟 』は氏の小説ではなく

与謝野晶子&与謝野鉄幹夫婦の評伝・・・評伝小説といえます。


渡辺氏の評伝小説というと『 花 埋 み 』を真っ先に思い出される方が多いんじゃないかな。



日本で最初の女医になった 荻野吟子の 評伝小説です。

渡辺氏 御自身が医師であったことなどがプラスに働いた面もあるし、

明治時代の医学・教育状況も丁寧に描かれていたし、ヒロインの吟子も魅力的でした。




そして、『 君も雛 罌 粟 われも雛 罌 粟 』 文句なしの力作です。



実は、私は渡辺氏の熱心なファンではありません。

この本にしても、読もうというきっかけは 著者が渡辺氏だから、

ではなく与謝野晶子が好きだから。



単行本で上下2冊というボリュームもありますが、殆ど長さを感じさせず

冗長にもならず、何よりも渡辺氏の熱意が真っ直ぐに伝わり

与謝野夫婦への愛着が感じられる作品になっています。



晶子&鉄幹に関する評伝を始めとする文献は数多くあります。

関連書籍も多いし、田辺聖子氏は晶子の、津村節子氏は恋のライバルである

山川登美子の評伝小説を書いておられます。


その中でも、『君も雛罌粟〜』は晶子たちの評伝小説としては

ベスト・ワンと言っても良いと思う。


また、資料もしっかり読み込まれて 鉄幹・晶子それぞれの人間像が

過不足なく語られていると思うな。


当時の歌壇・文壇状況もきちんと踏まえた上で、適宜、鉄幹や晶子、

恋のライバルであった山川登美子たちの 歌がセレクトされ 挿入されているので

彼らの心情が素直に伝わってくる。


短歌が好きな方なら 私以上に楽しめるはず。



さて、物語は 「 明 星 」 の紹介からスタートします。

明治33年発行の日付の、当時としては信じられないような斬新

且つ大胆な女性の 裸体画をモチーフにした表紙・・・・


編集発行人であった鉄幹の生い立ちと最初の妻・信子、二度目の妻

滝野との出会い、そして「明星」の創刊と続きます。

(但し、この妻たちとは内縁のままでした)


大阪・堺の 老舗和菓子屋の三女に生まれた晶子は 幼少時から漢学に親しみ、

森鷗外や島崎藤村に読みふけりました。和歌を作り始め

投稿した歌が 選ばれたのが16歳のときです。


そうして初めて「 明星 」創刊号を手にしたのが22歳、魅せられたように

投稿を始め 鉄幹の目を引くようになります。



この二人が出会ったのは明治33年8月、大阪で開催された歌会。

このとき巡り会ったのは鉄幹だけではありません。

同じく「 明星 」に投稿を続けていた山川登美子とも・・・・・



お互いに「お姉さま」「妹」と呼び合うほど親しくなり、良き歌のライバルであり

そして鉄幹を巡って恋のライバルにもなった美しい登美子と。


晶子にとっては 恋の喜びと 苦しみの 始まりの日 だったのかもしれませんね。

鉄幹に誘われるままに恋に落ちてゆく晶子・・・・・。



時代は明治、当然ですが ネットもメールも携帯もありません。

なので、手 紙 です。


まあ、鉄幹の 筆まめな事といったら!



当時の鉄幹は 浪漫派 歌壇のスター的存在でしたし、彼からの手紙が

晶子の恋心をどれ程 煽った事か・・・



ただ、問題は そうした 恋を仕掛ける相手が 晶子だけではなかった という事。



鉄幹には、内縁といえども妻・滝野がいましたし 自宅が新詩社・「明星」の

発行所になっているため、妻も編集の手伝いをしていました。

夫への恋心を歌い上げる 女性達の 手紙を見る事も多かったでしょう。


それでは、鉄幹はいわゆるプレイボーイだったのか?というと・・・

違うように思えるのですが。


遊び半分とかゲーム感覚で女性を誘惑したりモノにする事に

喜びを覚えるタイプ、ではなかったと思います。



一人一人の女性を本当に心から愛した、と思うよ。



だからこそ、女性にとっては魅力的だったろうと思うし

離れがたいと思わせた・・・チャーミングな男だったのでは?



だからこそ・・・ 困 っ た 男 でもあるんだけどね ww



この辺の所を渡辺氏は


登美子を一番愛しているが、それは一番目に、ということで、

その次には二番目も三番目もいる。

それをいい加減で、ただの浮気だと言われたら一言もないが、

鉄幹の女性への愛は特定の一人への愛というより、女性全体への

愛着であり、好奇心とでもいったものだった。
(一部抜粋)


相手の女性を慈しみ、その立場や性格を理解し、優しくかばう面も

秘めている。
(中略)鉄幹の手紙のなかで、女性を悪しざまに書いた

部分はほとんど見当たらない。
(中略)すべての女性をそれなりに認め、

評価して愛着を示し、その意味では気が多く、多情多心という

べきかもしれない。


(一部抜粋)



いかにも渡辺氏らしい考察です。渡辺氏 御自身の考え・願望なのかしら?



ただ、鉄幹は女性を見下したりするタイプではなかったはず

だからこそ、「 明星 」では 積極的に女性を 前面に押し出して

成功させたのだから。



やがて、妻の滝野が家を出た後、晶子が( 家出同様に )上京して

同居するようになるのですが・・・


表面的には、晶子が妻の滝野を追い出して自分が妻の座を得たように

( 今で言う略奪婚そのもの ) 見えるかもしれないけれど、事情は 違うようですね。



まあ早い話が愛想をつかされた、というか・・滝野の実家には

いずれ婿入りする約束で 経済的援助を受けていたのですが・・・

だからこそ「明星」を発刊・刊行し続けられたのだから。



確かに晶子は恋の勝利者・・にはなったのだけれど、

手放しでは喜べない事情も多々あった。経済的にも困窮するし・・・・・



むしろ、晶子の本当の苦しみは ここから始ったといっていいかも?

鉄幹は 相変わらず、妻に手紙を書いているし( 借金の申し込みもあったけど w )


この経緯についても どちらにも偏らずに書かれていると思います。



しかし、鉄幹の行状については 鉄幹と(多分)同じように、

女性関係 については 華やかな 実績をお持ちの 渡辺氏でさえも

少々呆れ気味なのが伺えます。



晶子の初の歌集「 み だ れ 髪 」が世に出たのはその頃でした。

一部批判はあったにせよ、全く新しい才能の出現は歌壇だけではなく

一般社会にまで晶子の名を知らしめることになりました。

そうして、ようやく正式に結婚。



“ 与 謝 野 晶 子 ”の 誕 生 です。



その後は子供たちの誕生、日露戦争・・・・・・

そして 今も名高い晶子の詩が発表されます。

あゝをとうとよ 君を泣く  君 死にたまふことなかれ ( 冒頭 抜粋 )

・・・と始る長詩「 君 死にたまふこと勿れ 」です。


発表後は 非難も多く、単なる詩としてだけではなく社会的な 論議も呼ぶまでになりましたが、

官憲からのお咎めが無かったのは 幸運だったけれど。

しかし、晶子にとってはまだまだ苦しいことが続きます。



結婚後は二人の元を離れた 山川登美子が 寡婦となり再び上京し

日本女子大で学ぶようになってからは 鉄幹との間の関係も 再燃したようで

・・・・妻として気付かないわけがないよ。



怒り狂って責める晶子に、鉄幹は「二人とも好きだから許してくれ」

と泣きながら平伏してあやまります。



もうっ! 鉄幹ったら! 嘘でもいいから「別れます」と言えないの?

言えないんだよ。 そこが鉄幹の鉄幹たる所以なのさ・・・・・




ゆるし給へ二人を 恋ふと泣きますや

聖母 にあらぬ おのれの前に 


晶子



鉄幹・晶子・登美子の関係が 息苦しいほどのリアルな 筆致で描かれ

ています。三者三様の思惑と苦しさがあった・・・

最終的には 登美子の死によって、この関係は終焉したのですが・・

もちろん、鉄幹は恋の問題だけを抱えていたわけではありません。



もっと 切実な問題が 表面化していきます。

明治の終わり頃からの「 明星 」の売れ行きの減少、鉄幹への人格攻撃、

北原白秋や吉井勇ら有力な 新詩社 同人の 離脱・・・



花開いた浪漫派の時代から 自然主義文学へと 移り変わる時期に

追い討ちをかけるように不況が続き、経営困難に。

そうして、明治41年11月、8年7ヶ月続いた「明星」は終焉の時

を迎えました。



もう、この頃には 晶子の歌の 技量は 鉄幹を超えていました



苦しい生活が続く中で、さまざまな原稿依頼が来るのは晶子だけ。

時代はもう 鉄幹の歌を求めてはいない。



生活を支えるために 詩歌のみならず小説にまで手を広げ発表の場

を広げてゆく晶子に比べて 無為に過ごさざるを得ない鉄幹・・・

荒れ果てて 子どもたちにまで当り散らしたり 無気力になってゆく

姿を見かねて、かねてより憧れのフランスに行くように進めたのは晶子でした。


フランスで 西欧の新しい風潮を身を持って知れば 今後の 文学活動のプラスにもなるし、

今の閉塞状態から抜け出すきっかけになる可能性があるかも、と期待をかけたのです。


渡航・滞在費用を稼ぐ為に晶子は大奮闘します。「 源氏物語 」抄訳の

前借をしたり、屏風に自作の短歌を書いたものを販売したり。



そうしてようやく、夫をフランスに送り出すことが出来たのですが

今度は夫の不在がたまらなく寂しくなってしまう・・・



どうなってんの?  晶子ったら??

もう子どもも10歳を頭にして 7人もいたというのに・・・

亭主は丈夫で留守がいい、とは思わなかったのね。



渡辺氏は、晶子の夫を 恋い慕う気持ちの中にはセクシャルな 要求も

有ったはずと 解釈しておられるのですが・・・



う〜ん・・そういう要素もあったかもしれませんが・・・

しかし、晶子には他に好きな男性はいなかったのかしら?

晶子ファンには叱られるかもしれませんが、そんな事を考えたこともあります。



まあ、誰もいなかったのでしょうね。晶子が激しく求めたのは鉄幹ただ一人だけ。

あとを追うようにしてフランスに 渡った晶子の作った歌が タイトルになっている この歌・・・



あ あ 皐 月 仏 蘭 西 の 野 は 火 の 色 す 君 も 雛 罌 粟 わ れ も 雛 罌 粟


パリ南西の田園地帯ツールに遊んだときの歌です。

( 官能の喜 びも含まれると 解釈するのは 深読みしすぎかな )



そして、4ヵ月後、夫より一足先に帰国した晶子のお腹には小さな

生命が新たに宿っていました。



鉄幹の帰国後も 晶子たちの生活は変わりません。

鉄幹は意欲はあっても職は得られず 「明星」の再建もならず

晶子との 諍いの果てに 家出騒動まで起こしたりしたけど・・・

それでも 夫のいない家には我慢できず、折れたのは晶子の方です。



新聞小説への連載、「源氏物語」の現代語訳 平塚雷鳥の「青踏」への寄稿と

晶子の活躍は留まることを知らぬほど伸びて生きます。


「 山の動く日 来る 」は「 青踏 」創刊号に発表された晶子の詩ですが

意外と、雷鳥の作と勘違いされることも多いようです。


8行ほどの短詩ではありますが 「 山が動いた 」というフレーズは

今でも使われることもありますよね。



二人の暮らしが少しは落ち着いてきたのは「明星」廃刊後10年位

たってからでしょうか。


鉄幹は 森鴎外の 推薦もあり、慶応義塾大学教授の職を得ることがで

きましたし、また版元の 編集顧問や文化学院の教授なども・・・


その後も第二次「明星」復刊、関東大震災、「明星」の休刊、廃刊と

続くのですが・・・・・もう長くなり過ぎましたね。



昭和8年2月、鉄幹が 還暦を迎えた時に『 与謝野寛 短歌全集 』が刊行。

序文には、様々な詩人・歌人、画家や版元・印刷所に至るまで 丁寧な謝辞が述べられています。



なかでも最も長く、最大級の言葉をもって謝意を述べているのは、

妻の晶子に対してでした。



(この女には勝てない・・・)

それはもう三十年来、寛が感じ、思い続けてきたことだった。

それでも初めのころは、「もしかして・・・」と思い、

途中からは「やはり・・・」に変わり、この十年は「完全に・・・」

となっていた。考えてみると、この三十年は、自分が妻に負けたこ

とをいいきかせ、納得させ、承諾させるための三十年でもあった。
(中略)


そしていま、寛は恥も外聞もなく、妻に完敗したことを白状し、

天下に公表し、そのあとに訪れるであろう平穏のなかにひたること

を願っていた。

「ありがとう・・・」


(一部抜粋)



鉄幹こと与謝野寛が亡くなったのは昭和10年3月26日。

肺炎による心不全でした。

その7年後の5月29日に晶子は夫の後を追うように脳溢血で死亡。



さて『君も雛罌粟〜』文庫版の下巻に付けられた帯のキャッチが



「 妻 の 才 能 に 負 けた 」


身も蓋も無い言い方ですね・・・・・

芸術に勝ち負けは無いとは思うけれども、才能の差は大きかった。


けれども、晶子の才能を引き出すことが出来たのは鉄幹しかいません。


もしも、晶子が鉄幹と出会わなかったら・・・鉄幹と結婚していなかったら・・・


後世に残る歌人・ 与謝野晶子は存在しなかった


そうして、鉄幹は晶子にとっては最愛の人だったから。

年月を経ても、その欠点を承知しながらも愛していた、大ゲンカしながらも。


それ程までに妻に愛された男性って・・・立派な勝利者じゃないかなぁ。

鉄幹は “ 愛 さ れ る 才 能 ” を持っていたのかもしれないね。

そう、その点では妻以上の才能があったのかな?


なぁんだ、そうすれば似合いの夫婦だよね。 あの二人は・・・・・




随分と長くなってしまいました。ごめんなさい。


それでは最後に・・・・・もし、よかったら 鉄幹の「 人を恋ふる歌 」を聴いてみませんか?


古臭い歌かもしれないけれど、気が向いたらどうぞ。(3分少々)

フル・コーラスではないのですが “ボニー・ジャックス”の面々が歌っています。




それでは、最後まで読んでくださってありがとう。

また、明日ね。



posted by cat-of-many-tales at 00:00| Comment(0) | 日本の小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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