2013年03月17日

「 硫黄島にて日本軍が全滅した日 」に読む『 栗 林 忠 道  硫 黄 島 からの手 紙 』


こんにちは、また来て下さってありがとう。


3月17日ですが・・・・・

少し迷ったけれども、やはりこれをトピックスにしました。


ただし、厳密に言えばこの日付は当時の “ 大本営 ” が発表した日付。

日本軍の組織的な戦闘が終結した日といってもいいか・・・


公式では17日になっているけれど、実際はこの後も戦闘が続いた事

を付け加えておきます。



さて、今日はどこからお話を始めたらいいか・・・ああ、そうだ

ねえ、あなたはこんなセリフを聞いたことないかしら?



「 敵 な が ら あ っ ぱ れ じ ゃ !」


そう、時代劇でよく使われるセリフだよね。


シチュエーションとしては 

立場的には敵であっても、その戦術や戦略の見事さ・勇敢さには

同じ戦士として賞賛を送りたい、というときに使わない?



例えば、武田信玄と上杉謙信はお互いにそう思っていたかもしれないし

神出鬼没のゲリラ戦法で徳川家康を最後まで悩ませたのが 真田幸村

結果的には負けてしまったのだけれど、家康は彼を高く評価している。

その戦いぶりは講談読み物『真田十勇士』として後世に広く伝えられたほど・・・



海外に目を向けると、第二次大戦中の北アフリカ戦線での

ドイツ軍のロンメル将軍(1891〜1944) (←ハンサムです。関係ないけど)


「砂漠のキツネ」と異名を取り、数の上では圧倒的優勢な英国軍を

たびたび壊滅させ英国軍を恐れさせた人物。


けれど、その戦術・戦略は巧みであり、また騎士道的でもあり、

英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家である」と賞賛された人。

(ナチスに入党しなかった というのもポイントが高いと思う)



太平洋戦争下で、アメリカ軍にそう思わせた日本人といえば・・・



この人を忘れちゃいけない。 そう、栗 林 忠 道 中 将 (1891〜1945)です。



太平洋戦時下で、日米最大の激戦地と呼ばれた 硫黄島での戦いの

日本軍の 総指揮をとった人物。



はい、今日の読書は 『 栗 林 忠 道  硫 黄 島 からの手 紙 』


文藝春秋社   文春文庫      解説&年譜:半藤一利



この本は、栗林中将が戦地・硫黄島から東京&疎開先の妻子に送った

全41通の手紙が編まれています。


妻に宛てたもの・長男を始めとした子どもたちに宛てたもの、

どの手紙もみんな家族を思いやる言葉にあふれています。



たこちゃん!田舎はもう寒いでしょうから、いつもよく気をつけて

風を引かないようになさいね。

お父さんのいる所はまだあついです。蚊も蝿もブンブンしています。

では之で今日は左様ならをします。左様なら。

(中略)

11月26日  戦地のお父さんより

栗林たか子ちゃんへ


一部抜粋・次女たか子へ宛てたもの。 (但し、数字は漢数字)



昭和19年6月25日から始って 昭和20年2月3日、妻に宛てた手紙が最後でした。



そして、おそらくは3月26日夜 のアメリカ陸空軍野営地への 夜襲時に戦死・・・53歳でした。



若し私の居る島が敵に取られたとしたら、日本内地は毎日毎夜の様

に 空襲されるでしょうから、私達の 責任は 実に重大です。

それで 皆決死の 覚悟です。

十中九分九厘迄は 生還 は期せられないと思います。
(中略)

頭の中が惨烈な 戦闘、そして玉砕、そして其の後の 妻子の 身の上が

如何なって行くだろうか?と云う事許りです。


(一部抜粋)



昭和19年6月、サイパン・グァムなどマリアナ諸島はすべてアメリカ軍に制圧。

小笠原諸島が日本を守るための最前線になったとき

栗林中将が総司令官に任命されましたが

既にそのときに、もう死は覚悟していたようです。



アメリカ軍にとっても、小笠原諸島を制圧することは 重 要 な 意 味 を持っていました。

ここを基地・足がかりとすれば (補給基地としても)

日本本土への戦略爆撃がたやすく可能になるから。



当初のアメリカ側の思惑としては・・攻略はまあ5日もあればカタが

つくであろう、だったみたい。


ところが・・・・・



さて、ここであなたに 一枚 の 報 道 写 真 を思い出して欲しい。

有名な写真だから、あなたもどこかで目にしたことがあると思うの。


6人のアメリカ兵士が、岩山(擂鉢山)の上で高々と星条旗を掲げている写真です。



星条旗は風にひるがえり、まさに勝利の象徴のよう・・・


タイトルは「 硫 黄 島 の星 条 旗 」

史上最も有名な報道写真のひとつであり、1945年のピューリッツア賞を受賞した写真です。



恥ずかしながら、私はこの写真については勘違いしていました。

硫黄島の戦いが 完全に終わったあとの写真 だと思っていた のです。



米軍が攻め始めたのが2月19日で、写真が撮影されたのは 2 月 2 3 日

これで片が付いた、戦闘終了!と思った米兵は多かったでしょう。



そうじゃなかった。

これは硫黄島の戦いの ほんの 序 盤 に過ぎなかったの。



写真に写された6人の内、生きて祖国へ凱旋できたのは3人だけ。

そう、硫黄島の戦いはアメリカ軍にとっても想定外の悲劇を生んだから・・・



この小さな島での戦闘の犠牲者が、

ヨーロッパ戦線のノルマンディー上陸作戦 (いわゆる“ 史上最大の作戦 ”)

における死傷者数をはるかに上回ってしまった。


もちろん、日本軍の犠牲はもっと多かった。兵力2万人以上がほぼ全滅したから・・



戦闘の詳細は敢えて書きません。  書きませんが・・・・・




・アメリカは 攻めるのに 必死・・・何としてでも 攻め落とせ !

・日本は 守るのに 必死・・・何としてでも 守らねば!



どちらも必死の戦いが・・・どれ程の惨劇・悲劇、戦死者を生んだか・・・

あなたなら想像がつくと思います(涙)



かなり前のことですが、硫黄島の戦いを アメリカ側が 制作した 映像

(当時の記録フィルム)を見たことがあります。


完全に戦いが終結した後に撮影されたものですが・・・

死屍累々たる日本兵の死骸が最初に写されて、目を覆いたくなるような映像だけれど・・・




その後カメラは切り替わって、アメリカ兵たちが後片付け?をしている場面になるのですが


おや?と思ったのは、勝利した側・アメリカの撮影した記録映像なのに

写っているアメリカ兵たち、彼らは誰一人として嬉しそうじゃない。


勝ったんだよ、彼らは。  それなのに・・・・・


みんな消耗しきって、やりきれないような・苦しそうな表情で・・・



誰も 笑って いない。


この部分だけを見れば、まるでアメリカが負けた後みたいに見えるの。



ああ、これが 戦争 の 現実 なんだなあ・・と感じさせる映像でした。



最後に・・・・・・・



この硫黄島の戦いについて、ずっと後になってから

アメリカ軍幹部が 「 勝 者 な き 闘 い 」 と称したことを付け加えておきましょうか・・・




今日は暗い話になってしまいました・・・・イヤだった? 

ごめんなさいね。


明日は明るいお話になりますよ。 

では、またね。






posted by cat-of-many-tales at 00:00| Comment(0) | 日本のエッセイ&ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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