2013年03月26日

「 鉄幹忌 」に読む 『 君も雛 罌 粟 われも雛 罌 粟 』 by 渡辺 淳一


こんにちは、今日も来て下ってありがとう。


3月26日は与謝野 鉄幹の忌日(命日)「 鉄 幹 忌 」です。


与謝野 鉄幹(1873〜1935)本名は寛。


歌人にして、明治33年 新詩社を起こし 「 明 星 」 を創刊。 日本の近代浪漫派の 旗手と呼ばれた人物。


石川啄木や 北原白秋を世に送り出した功績があります。

時代に先んじたジャーナリスティックなセンスの持ち主でもありました。

1921年には建築家の西村伊作や妻とともに文化学院を創設。

著書には詩歌集「東西南北」など多数あります。


しかし、今 鉄幹といっても・・・


その歌を諳んじられるのは 余程 短歌に詳しい愛好家に限られるでしょうが・・・

一般的に知られた 鉄幹の 歌はというと・・・・↓コレかなぁ・・



♪妻をめとらば才たけて  みめうるわしく なさけあり♪


♪友をえらばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱♪


(一部抜粋 現代かな遣いに直しています)


今、この歌を愛唱されるのは相当 御年配の方でしょうか。

戦前の 旧制 第三高等学校の 寮歌として愛唱されたものが 

一般に広まり歌われるようになりました。(作曲者は不詳)



しかし・・・鉄幹の最も有名な肩書きは “ 与 謝 野 晶 子 の 夫 ”


与謝野晶子(1878〜1942)本名は志よう。日本の近代歌壇に燦然とその名を残し

「情熱の歌人」と呼ばれました。短歌のみならず、近代文学史上屈指の

女性であるともいえます。


浪漫派の歌人として数々の歌を残し、反戦歌としても名高い

「 君 死にたまふことなかれ 」でも知られています。源氏物語の日本語訳の

功績もあり、彼女の歌は今でも教科書に採り上げられているほど・・・


この二人は芸術家同士の夫婦・・・ではありますが、


21世紀の今、その実績を見ると 随分と“ 格 差 婚 ”っぽいような?


はい 今日の読書は 『 君も 雛 罌 粟 われも 雛 罌 粟 』

著者: 渡辺 淳一  文藝春秋社  文春文庫 

注:「 雛 罌 粟 」には フランス語の“コクリコ”とルビが打たれ

与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯とサブタイトルが付けられています。  



著者の渡辺淳一氏については、あなたもよく御存知の有名作家。

映画化・ドラマ化された作品も多く、センセーショナルに性愛を

テーマとした作品も多く人気のある方です。


『 君も雛 罌 粟 われも雛 罌 粟 』は氏の小説ではなく

与謝野晶子&与謝野鉄幹夫婦の評伝・・・評伝小説といえます。


渡辺氏の評伝小説というと『 花 埋 み 』を真っ先に思い出される方が多いんじゃないかな。



日本で最初の女医になった 荻野吟子の 評伝小説です。

渡辺氏 御自身が医師であったことなどがプラスに働いた面もあるし、

明治時代の医学・教育状況も丁寧に描かれていたし、ヒロインの吟子も魅力的でした。




そして、『 君も雛 罌 粟 われも雛 罌 粟 』 文句なしの力作です。



実は、私は渡辺氏の熱心なファンではありません。

この本にしても、読もうというきっかけは 著者が渡辺氏だから、

ではなく与謝野晶子が好きだから。



単行本で上下2冊というボリュームもありますが、殆ど長さを感じさせず

冗長にもならず、何よりも渡辺氏の熱意が真っ直ぐに伝わり

与謝野夫婦への愛着が感じられる作品になっています。



晶子&鉄幹に関する評伝を始めとする文献は数多くあります。

関連書籍も多いし、田辺聖子氏は晶子の、津村節子氏は恋のライバルである

山川登美子の評伝小説を書いておられます。


その中でも、『君も雛罌粟〜』は晶子たちの評伝小説としては

ベスト・ワンと言っても良いと思う。


また、資料もしっかり読み込まれて 鉄幹・晶子それぞれの人間像が

過不足なく語られていると思うな。


当時の歌壇・文壇状況もきちんと踏まえた上で、適宜、鉄幹や晶子、

恋のライバルであった山川登美子たちの 歌がセレクトされ 挿入されているので

彼らの心情が素直に伝わってくる。


短歌が好きな方なら 私以上に楽しめるはず。



さて、物語は 「 明 星 」 の紹介からスタートします。

明治33年発行の日付の、当時としては信じられないような斬新

且つ大胆な女性の 裸体画をモチーフにした表紙・・・・


編集発行人であった鉄幹の生い立ちと最初の妻・信子、二度目の妻

滝野との出会い、そして「明星」の創刊と続きます。

(但し、この妻たちとは内縁のままでした)


大阪・堺の 老舗和菓子屋の三女に生まれた晶子は 幼少時から漢学に親しみ、

森鷗外や島崎藤村に読みふけりました。和歌を作り始め

投稿した歌が 選ばれたのが16歳のときです。


そうして初めて「 明星 」創刊号を手にしたのが22歳、魅せられたように

投稿を始め 鉄幹の目を引くようになります。



この二人が出会ったのは明治33年8月、大阪で開催された歌会。

このとき巡り会ったのは鉄幹だけではありません。

同じく「 明星 」に投稿を続けていた山川登美子とも・・・・・



お互いに「お姉さま」「妹」と呼び合うほど親しくなり、良き歌のライバルであり

そして鉄幹を巡って恋のライバルにもなった美しい登美子と。


晶子にとっては 恋の喜びと 苦しみの 始まりの日 だったのかもしれませんね。

鉄幹に誘われるままに恋に落ちてゆく晶子・・・・・。



時代は明治、当然ですが ネットもメールも携帯もありません。

なので、手 紙 です。


まあ、鉄幹の 筆まめな事といったら!



当時の鉄幹は 浪漫派 歌壇のスター的存在でしたし、彼からの手紙が

晶子の恋心をどれ程 煽った事か・・・



ただ、問題は そうした 恋を仕掛ける相手が 晶子だけではなかった という事。



鉄幹には、内縁といえども妻・滝野がいましたし 自宅が新詩社・「明星」の

発行所になっているため、妻も編集の手伝いをしていました。

夫への恋心を歌い上げる 女性達の 手紙を見る事も多かったでしょう。


それでは、鉄幹はいわゆるプレイボーイだったのか?というと・・・

違うように思えるのですが。


遊び半分とかゲーム感覚で女性を誘惑したりモノにする事に

喜びを覚えるタイプ、ではなかったと思います。



一人一人の女性を本当に心から愛した、と思うよ。



だからこそ、女性にとっては魅力的だったろうと思うし

離れがたいと思わせた・・・チャーミングな男だったのでは?



だからこそ・・・ 困 っ た 男 でもあるんだけどね ww



この辺の所を渡辺氏は


登美子を一番愛しているが、それは一番目に、ということで、

その次には二番目も三番目もいる。

それをいい加減で、ただの浮気だと言われたら一言もないが、

鉄幹の女性への愛は特定の一人への愛というより、女性全体への

愛着であり、好奇心とでもいったものだった。
(一部抜粋)


相手の女性を慈しみ、その立場や性格を理解し、優しくかばう面も

秘めている。
(中略)鉄幹の手紙のなかで、女性を悪しざまに書いた

部分はほとんど見当たらない。
(中略)すべての女性をそれなりに認め、

評価して愛着を示し、その意味では気が多く、多情多心という

べきかもしれない。


(一部抜粋)



いかにも渡辺氏らしい考察です。渡辺氏 御自身の考え・願望なのかしら?



ただ、鉄幹は女性を見下したりするタイプではなかったはず

だからこそ、「 明星 」では 積極的に女性を 前面に押し出して

成功させたのだから。



やがて、妻の滝野が家を出た後、晶子が( 家出同様に )上京して

同居するようになるのですが・・・


表面的には、晶子が妻の滝野を追い出して自分が妻の座を得たように

( 今で言う略奪婚そのもの ) 見えるかもしれないけれど、事情は 違うようですね。



まあ早い話が愛想をつかされた、というか・・滝野の実家には

いずれ婿入りする約束で 経済的援助を受けていたのですが・・・

だからこそ「明星」を発刊・刊行し続けられたのだから。



確かに晶子は恋の勝利者・・にはなったのだけれど、

手放しでは喜べない事情も多々あった。経済的にも困窮するし・・・・・



むしろ、晶子の本当の苦しみは ここから始ったといっていいかも?

鉄幹は 相変わらず、妻に手紙を書いているし( 借金の申し込みもあったけど w )


この経緯についても どちらにも偏らずに書かれていると思います。



しかし、鉄幹の行状については 鉄幹と(多分)同じように、

女性関係 については 華やかな 実績をお持ちの 渡辺氏でさえも

少々呆れ気味なのが伺えます。



晶子の初の歌集「 み だ れ 髪 」が世に出たのはその頃でした。

一部批判はあったにせよ、全く新しい才能の出現は歌壇だけではなく

一般社会にまで晶子の名を知らしめることになりました。

そうして、ようやく正式に結婚。



“ 与 謝 野 晶 子 ”の 誕 生 です。



その後は子供たちの誕生、日露戦争・・・・・・

そして 今も名高い晶子の詩が発表されます。

あゝをとうとよ 君を泣く  君 死にたまふことなかれ ( 冒頭 抜粋 )

・・・と始る長詩「 君 死にたまふこと勿れ 」です。


発表後は 非難も多く、単なる詩としてだけではなく社会的な 論議も呼ぶまでになりましたが、

官憲からのお咎めが無かったのは 幸運だったけれど。

しかし、晶子にとってはまだまだ苦しいことが続きます。



結婚後は二人の元を離れた 山川登美子が 寡婦となり再び上京し

日本女子大で学ぶようになってからは 鉄幹との間の関係も 再燃したようで

・・・・妻として気付かないわけがないよ。



怒り狂って責める晶子に、鉄幹は「二人とも好きだから許してくれ」

と泣きながら平伏してあやまります。



もうっ! 鉄幹ったら! 嘘でもいいから「別れます」と言えないの?

言えないんだよ。 そこが鉄幹の鉄幹たる所以なのさ・・・・・




ゆるし給へ二人を 恋ふと泣きますや

聖母 にあらぬ おのれの前に 


晶子



鉄幹・晶子・登美子の関係が 息苦しいほどのリアルな 筆致で描かれ

ています。三者三様の思惑と苦しさがあった・・・

最終的には 登美子の死によって、この関係は終焉したのですが・・

もちろん、鉄幹は恋の問題だけを抱えていたわけではありません。



もっと 切実な問題が 表面化していきます。

明治の終わり頃からの「 明星 」の売れ行きの減少、鉄幹への人格攻撃、

北原白秋や吉井勇ら有力な 新詩社 同人の 離脱・・・



花開いた浪漫派の時代から 自然主義文学へと 移り変わる時期に

追い討ちをかけるように不況が続き、経営困難に。

そうして、明治41年11月、8年7ヶ月続いた「明星」は終焉の時

を迎えました。



もう、この頃には 晶子の歌の 技量は 鉄幹を超えていました



苦しい生活が続く中で、さまざまな原稿依頼が来るのは晶子だけ。

時代はもう 鉄幹の歌を求めてはいない。



生活を支えるために 詩歌のみならず小説にまで手を広げ発表の場

を広げてゆく晶子に比べて 無為に過ごさざるを得ない鉄幹・・・

荒れ果てて 子どもたちにまで当り散らしたり 無気力になってゆく

姿を見かねて、かねてより憧れのフランスに行くように進めたのは晶子でした。


フランスで 西欧の新しい風潮を身を持って知れば 今後の 文学活動のプラスにもなるし、

今の閉塞状態から抜け出すきっかけになる可能性があるかも、と期待をかけたのです。


渡航・滞在費用を稼ぐ為に晶子は大奮闘します。「 源氏物語 」抄訳の

前借をしたり、屏風に自作の短歌を書いたものを販売したり。



そうしてようやく、夫をフランスに送り出すことが出来たのですが

今度は夫の不在がたまらなく寂しくなってしまう・・・



どうなってんの?  晶子ったら??

もう子どもも10歳を頭にして 7人もいたというのに・・・

亭主は丈夫で留守がいい、とは思わなかったのね。



渡辺氏は、晶子の夫を 恋い慕う気持ちの中にはセクシャルな 要求も

有ったはずと 解釈しておられるのですが・・・



う〜ん・・そういう要素もあったかもしれませんが・・・

しかし、晶子には他に好きな男性はいなかったのかしら?

晶子ファンには叱られるかもしれませんが、そんな事を考えたこともあります。



まあ、誰もいなかったのでしょうね。晶子が激しく求めたのは鉄幹ただ一人だけ。

あとを追うようにしてフランスに 渡った晶子の作った歌が タイトルになっている この歌・・・



あ あ 皐 月 仏 蘭 西 の 野 は 火 の 色 す 君 も 雛 罌 粟 わ れ も 雛 罌 粟


パリ南西の田園地帯ツールに遊んだときの歌です。

( 官能の喜 びも含まれると 解釈するのは 深読みしすぎかな )



そして、4ヵ月後、夫より一足先に帰国した晶子のお腹には小さな

生命が新たに宿っていました。



鉄幹の帰国後も 晶子たちの生活は変わりません。

鉄幹は意欲はあっても職は得られず 「明星」の再建もならず

晶子との 諍いの果てに 家出騒動まで起こしたりしたけど・・・

それでも 夫のいない家には我慢できず、折れたのは晶子の方です。



新聞小説への連載、「源氏物語」の現代語訳 平塚雷鳥の「青踏」への寄稿と

晶子の活躍は留まることを知らぬほど伸びて生きます。


「 山の動く日 来る 」は「 青踏 」創刊号に発表された晶子の詩ですが

意外と、雷鳥の作と勘違いされることも多いようです。


8行ほどの短詩ではありますが 「 山が動いた 」というフレーズは

今でも使われることもありますよね。



二人の暮らしが少しは落ち着いてきたのは「明星」廃刊後10年位

たってからでしょうか。


鉄幹は 森鴎外の 推薦もあり、慶応義塾大学教授の職を得ることがで

きましたし、また版元の 編集顧問や文化学院の教授なども・・・


その後も第二次「明星」復刊、関東大震災、「明星」の休刊、廃刊と

続くのですが・・・・・もう長くなり過ぎましたね。



昭和8年2月、鉄幹が 還暦を迎えた時に『 与謝野寛 短歌全集 』が刊行。

序文には、様々な詩人・歌人、画家や版元・印刷所に至るまで 丁寧な謝辞が述べられています。



なかでも最も長く、最大級の言葉をもって謝意を述べているのは、

妻の晶子に対してでした。



(この女には勝てない・・・)

それはもう三十年来、寛が感じ、思い続けてきたことだった。

それでも初めのころは、「もしかして・・・」と思い、

途中からは「やはり・・・」に変わり、この十年は「完全に・・・」

となっていた。考えてみると、この三十年は、自分が妻に負けたこ

とをいいきかせ、納得させ、承諾させるための三十年でもあった。
(中略)


そしていま、寛は恥も外聞もなく、妻に完敗したことを白状し、

天下に公表し、そのあとに訪れるであろう平穏のなかにひたること

を願っていた。

「ありがとう・・・」


(一部抜粋)



鉄幹こと与謝野寛が亡くなったのは昭和10年3月26日。

肺炎による心不全でした。

その7年後の5月29日に晶子は夫の後を追うように脳溢血で死亡。



さて『君も雛罌粟〜』文庫版の下巻に付けられた帯のキャッチが



「 妻 の 才 能 に 負 けた 」


身も蓋も無い言い方ですね・・・・・

芸術に勝ち負けは無いとは思うけれども、才能の差は大きかった。


けれども、晶子の才能を引き出すことが出来たのは鉄幹しかいません。


もしも、晶子が鉄幹と出会わなかったら・・・鉄幹と結婚していなかったら・・・


後世に残る歌人・ 与謝野晶子は存在しなかった


そうして、鉄幹は晶子にとっては最愛の人だったから。

年月を経ても、その欠点を承知しながらも愛していた、大ゲンカしながらも。


それ程までに妻に愛された男性って・・・立派な勝利者じゃないかなぁ。

鉄幹は “ 愛 さ れ る 才 能 ” を持っていたのかもしれないね。

そう、その点では妻以上の才能があったのかな?


なぁんだ、そうすれば似合いの夫婦だよね。 あの二人は・・・・・




随分と長くなってしまいました。ごめんなさい。


それでは最後に・・・・・もし、よかったら 鉄幹の「 人を恋ふる歌 」を聴いてみませんか?


古臭い歌かもしれないけれど、気が向いたらどうぞ。(3分少々)

フル・コーラスではないのですが “ボニー・ジャックス”の面々が歌っています。




それでは、最後まで読んでくださってありがとう。

また、明日ね。



posted by cat-of-many-tales at 00:00| Comment(0) | 日本の小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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