2013年04月10日

「 耶馬溪・青の洞 門 が開通した日 」に読む 『 恩讐の彼方に 』 by  菊池 寛


こんにちは、今日も来て下さってありがとう。



4月10日はタイトル通りに九州・耶馬溪の 青の洞門 が開通した日。

“ 洞門“ とは 隧道つまり ト ン ネ ル の事ですね。



耶馬溪は大分県中津市。中津市の山国川をさかのぼって上流に行くと

無数の奇岩がそそり立つ 耶馬渓と呼ばれる景勝地が・・・

頼山陽が「 耶馬溪天下に比べるものなし 」と褒めたたえた程の名勝の地。

秋の紅葉も素晴らしいそうです。



有名な観光地でもあるので、御存知の方は多いでしょう。

しかし、それ程までに美しい場所であっても・・・・・


実際に、その地に住んでいる人にとっては交通の難所でもあったわけです。

何しろ、断崖絶壁なのだから 人が通ろうと思ったら、崖に張渡された鎖を

伝わって そろりそろりと行くしかありません。鎖が切れる事もあったでしょう。



崖沿いではなく、トンネルがあれば、楽に安全に渡れるのですが

現代のように 大規模工事で簡単にトンネルを掘るわけにはいかないし・・・

ましてや、近代以前の江戸時代に、そんな山を削ってトンネルを掘ることは

非常に困難でしょう。


成功させようとしたら、国、じゃない藩の一大プロジェクトとしてしか考えられないのですが。


しかし、本当に 人の手でトントンカチカチと ノミとツチだけで、山を削りトンネルを掘り


開通させてしまったのが “ 青 の 洞 門 ” です。



堀削を始めたのが 1730年頃で 開通日時は 1763年4月10日 

その人の名は 禅 海 ・・・・・




はい 今日の読書は 『 恩讐の彼方に 』  著者:菊池 寛 




三省堂の 新明解国語辞典で “ 恩 讐 ”という単語を引くと 次のように

解説されていました。


【恩讐】1.人から受けた恩や恨み 2.(意味の実質は讐にある)忘れられない


かつての敵対関係や恨みの念(おも)い。

・・・とあり、具体例として書かれていたのが 恩讐の彼方(カナタ)



はいはい、恩讐といえば、もうこの小説が即、引用されるほど有名なのかしら ww



著者は菊池寛(1888〜1948)、この名前は余りにも有名で、菊池 寛=『 父帰る 』

という戯曲を思い出す方が一番多いのではないかしら。読む・読まないは別にして。



作品として一番優れているのは『 忠直卿行状記 』か『 藤十郎の恋 』かなあ・・・


10年くらい前でしょうか、著作の『 真 珠 夫 人 』 が現代物にリメイクされて

テレビ放映されたのを 御覧になった方もいるかも・・・・・



そうして、忘れてはならないのが 作家・菊池寛だけではなく、

ジャーナリスティックなセンスを備えた実業家であったということ。

1923年(大正12年)に私費で文藝春秋社を創設、「 文 藝 春 秋 」を 創 刊

大ヒット。経済的に大成功した人物です。


( ちなみに、アメリカの「タイム」誌とほぼ同時期の創刊です )



また、1935年(昭和10年)には 芥川龍之介賞・直木三十五賞を制定し、

日本で一番有名な 文学賞として現在にまで至っています。



さて、作品に戻りましょう。


この『 恩讐の彼方に 』は、上記“ 青の洞門 ”を堀削した僧侶・禅海を

モデルにした作品です。


実在の禅海にプラスして「 敵 討 ち」というドラマ性を持たせた作品に仕上げました。


時代は 江戸時代の半ば頃・・・。

主人公・市九郎は旗本である主人・中川三郎兵衛の愛妾・お弓とラブラブになり、

密会が知れて斬りつけられ、反対に主人・三郎兵衛を斬り殺してしまいます。

当時、主殺しは大罪・・・お弓と手に手を取って逐電します。


街道筋を流れて行きながら、日々の糧を得る為にやり始めた事は 強盗や人殺し・・・

宿場で小さな茶店を構え、立ち寄る客の中から、獲物を物色していたのですが、

ある若夫婦を殺した時に、お弓の強欲さ・残虐さを目の当たりにして

嫌気がさし、身体ひとつで逃げ出してしまいます。
 


美濃の浄願寺に駆け込んだ市九郎は、これまでの己の罪を悔い自首しようとしましたが、

住職から 得度して殺した人々の菩提を弔い、罪滅ぼしに人の為になる事をすべきと諭されます。

市九郎は仏道修行に励み、名を了海と改め 諸国を遍歴します。



そして、九州の耶馬溪で、この 200間(約360m)余りの絶壁を

くりぬいて道を作ろうと発願し、周囲の人々に寄進を求めますが

誰も協力はしてくれず笑い者になるばかり・・・

寄進や協力を諦めた了海は 独力でこの大事業に挑む事を決意。




市九郎は一心不乱に槌を振った。槌を振っていさえすれば、彼の心には

何の雑念も起らなかった。人を殺した悔恨も、そこにはなかった。

極楽に生まれようという、欣求もなかった。ただそこに、晴れ晴れとし

た精進の心があるばかりであった。


(引用 『恩讐の彼方に』 一部抜粋)



そうして1年、2年、3年、4年と過ぎて・・・何度か村人の協力もあり

18年目にはもう岩壁の半分ほども掘り進められてきました。

その頃にはもう了海の事業も藩に認められるようになり、30人近い石工が

集められ共に作業するようになります。



そんな時に現れたのが・・・自分が殺した主人・中川三郎兵衛の成長した息子・・・

敵を討つ為に、諸国を旅しながら市九郎を捜していたのですが・・・

しかし、彼の敵討ちは周囲の石工たちに阻止され、敵討ちはせめて開通

してからと嘆願され、しばらくこの地に留まることにしますが

市九郎の掘り進む姿に心を打たれ、いつしか共に並んで作業するように・・

そうして、ついに洞門は開通した、そのときには・・・・・



彼は いざり寄りながら、再び老僧の手を執った。

二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙に咽び合うたのであった。


(引用 『恩讐の彼方に』 一部抜粋)



めでたし、めでたし・・・良かったね、のハッピーエンドで終わります。


この作品が発表されたのは 1919年(大正8年)ですが、丁度その頃は

大 衆 文 学 の 勃 興 期 でした。


それ以前の明治文学は 延々と描写が続き やや退屈な?ハイブロウなものでしたが


菊池寛は、小説に 誰にでも分かりやすい 明確なテーマと 物語性をプラス

したわけですね。

彼の作品は、新聞や雑誌で大好評で迎えられました。

(あの『真珠夫人』も新聞小説でした)


後に「 文壇の大御所 」と呼ばれた菊池寛の出世作が、この『 恩讐の彼方に 』です。



一応は 禅海和尚という実在の人物をモデルにしているのですが・・・



事実そのままではありません

禅海の場合は、完全に一人ではなく喜捨を募り資金を集め、石工を雇って堀削しましたから。

禅海和尚の前歴は、生まれが越後高田である以外は ハッキリしていませんが

敵討ちの話は完全にフィクションです。




ただ、菊池寛の小説が余りにも有名になってしまったので、

こちらが事実であると勘違いされたまま 広まってしまったのは良い事か

悪い事なのか微妙ですね ww



ただ・・・事実を元にしながらも、話を面白くしようとしたあまり

全く違う話になって流通してしまった・・という事は現代にもありそうですね。


テレビなどで放映されたりすると、事実として定着しそうで怖いな、

などと考えたりしました。



さてと・・・今日はこの辺で おしまいにしましょう。

それでは、またね。



posted by cat-of-many-tales at 00:00| Comment(2) | 日本の小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
菊池寛は、耶馬渓に来ないで、偽書の「切通し禅海坊敵討之目録」という書き手も出所も不明の資料を基に「恩讐の彼方に」を書いてヒットし、それが史実になっている点が怖いことです。謎の深い人物ですが、人殺しは冤罪もいいところで、それが大分県の公的資料にも事実のように書かれていて驚きました。
考えられることは、禅海は、中津藩の許しを得て、青の洞門の通行料を徴収したのですが、利用者には高額で苦しかったこと、亡くなった時に百両も貯まっていたと記録があります。その金は、羅漢寺に全額永代供養料として寄進されました。偽書は羅漢寺にあったのですが火事で焼け、その写しが庄屋宅にあって、菊池寛の目にしたものと考えられます。いずれにしても後の世に禅海をこころよく思わない人物がいて、面白おかしく人殺しと敵討ちの物語にしたのです。無責任なことです。
Posted by 桜田靖 at 2015年10月16日 11:54
 桜田靖作「女の洞門 禅海和尚秘話」は、ラブロマンスのジャンルの小説に仕立てていますが、禅海和尚の真実の姿に迫っています。
 画家の池邊貞喜さん(故人)が、30年かけて綿密に取材した「私説 青の洞門」(1992年新樹社刊)を参照・検討して書き下ろしています。インタープレイ社刊の電子小説です。
 禅海の根も葉もない「人殺し」なんて、菊池寛の「恩讐の彼方に」で大勢の人々が史実と思い込んでしまっている認識を改めましょう。さもないと、泉下の青の洞門を掘った大分県の恩人は、無実の罪に泣いていますよ。
Posted by 小畠吉晴 at 2015年11月30日 10:34
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