2013年04月07日

「 戦艦大和が撃沈された日 」に読む 『 戦 艦 大 和 ノ 最 期 』 by 吉 田 満


こんにちは、今日も来て下さってありがとう。


4月7日は「 戦艦大和が 撃沈された日 」になります。

正確には 昭和20年4月7日 午後2時22分 空からの 攻撃を受け横転、

大爆発を起こし沈没・・・。



はい、今日の読書は 『 戦 艦 大 和 ノ 最 期 』 著者:吉田 満

講談社  講談社文芸文庫



著者の吉田満氏は(1923〜1979)は 昭和17年に東京帝大法学部に入学

学徒出陣で海軍予備学生として海兵団に入団。



昭和19年12月に 戦艦大和に副電測士(レーダーの担当者)として乗艦、

大和艦上において その日の戦闘状況を 記録する役目を与えられておりました

そうして 辛うじて生還された方です。吉田氏は そのとき 2 2 歳 でした・・・


敗戦後の9月に 御両親が 疎開されていた東京都西多摩郡に復員、

作家の 吉 川 英 治 と知り合い、その勧めにより『 戦艦大和ノ最期 』を

執筆する事を 決意されました。



昭和21年には雑誌「創元」に原稿を発表する予定でしたが、

GHQの 事前検閲により掲載中止の憂き目に会いました。


創元社より出版されたのが 昭和27年( ようやく日本の主権が回復した年 )

その後、昭和49年に決定稿として 北洋社から出版。

そして、いま私の手元にあるのは 昭和56年の 講談社版です。




さて・・・戦艦大和ですが・・・今日は どうお話していこうかな・・・




私が小学生のときですが・・・兄の読んでいた月刊漫画雑誌に

こんな特集があったのを よく覚えています。


「 世 界 の 三 大 馬 鹿 」 という特集読み物でした。そこに挙げられていたのが



1:エジプトのピラミッド

2:万里の長城

3:戦艦大和



↑↑ これ・・何のことか分かりますか?



つまり、図体ばかり大きくて 造るのにお金もかかったけれど

いざという時には全く 役に立たなかったもの という意味だったみたい。


但し、この時代には ピラミッドはファラオの単なる墓と考えられていました。

立派な墓を作っても財宝は皆盗掘されてしまった、という意味でのバカ。

万里の長城は 異民族の侵入を防げなかった という意味だったかな?



そして戦艦大和・・・はいはい、一番肝心な時に役に立たなかったのね。

(現代人なら、番外編で「タイタニック号」を入れたいかも?)



戦艦大和は 全長263メートル・全幅38.9メートル 46センチ主砲の

当時の日本海軍が 総力を挙げて造り上げた 最 大・最 強 の 浮 沈 軍 艦 ・・・のはず!

・・・・・だったのですが・・・甘い! 甘い!!



もう既に 当時の世界の軍事常識では 大 鑑 巨 砲 主 義 は 時 代 遅 れ になっていたんですよ。

真珠湾攻撃で アメリカ海軍に壊滅的な打撃を与えたのが

航 空 戦 力 だったのを忘れていたのでしょうか?


以来、アメリカは 今後の戦争の主役は 航空機 であると学習したのにね。



日露戦争当時、バルチック艦隊を打ち破った日本海海戦の 勝利の味が

忘れられなかったのか・・・



戦艦大和は この時以前にも3回出撃してはいます。

昭和17年のミッドウェー海戦と 昭和19年のマリアナ沖海戦では

実質的な戦いには追いつけず 空しく引き揚げただけ。

レイテ沖戦では 辛うじてアメリカ空母1艦を撃沈させましたが・・・



ちなみに、日本軍の作戦は アメリカ軍にしっかりと解読されていました。

この暗号解読に 貢献したのが IBMの前身だった事はあなたも 御存知かもしれませんね。




そうして、昭和20年4月6日 戦艦大和は 沖 縄 に 向 け て 出 撃 します。

「 海上特攻隊 」と呼ばれる使命を与えられ 最後の時を迎えるために・・・・・。





吉田氏のこの作品は・・・・・

昭和十九年末ヨリ ワレ少尉、副電測士トシテ「大和」ニ勤務ス

(冒頭一部抜粋)

・・・と始まる漢字とカナの文語体で書かれています。


読みにくいのですが、吉田氏は敢えてこうした文体にした、とのこと。

後に「 死 生 の 体 験 と 重 み は 日 常 語 に は 乗 り 難 い 」と語っておられます。

しかし、声を出して朗読すると非常にリズムのある 荘重な響きが・・・・・



さて、この沖縄出撃は天1号作戦と名付けられていますが、

片道分の燃料を積んで特攻、浅瀬に乗り上げて砲台となり、アメリカ軍の

沖縄上陸を阻止せよという無謀なものでした。



なぜギリギリの終盤になって大和を?という疑問も多いと思うのですが

結局は・・・陸軍との思惑や 負けるにしても全て武器を出し尽くして

負けたのだという実績作りのためか・・・・・表現としては不適切ですが

お役所の年度末の予算消化工事と同じ意味合いだったのか・・・・・



しかし、大和は単体の武器そのものではありません。

そこには 約 3 3 0 0 名 の 若 い 生 命 が 乗 船 し て い た のだから。

そうして、吉田氏も その中のひとりでした。


もはや生きては帰れないと覚悟を決めた 出撃の朝には 両親に宛てて

遺書を書きます・・・



遺書ノ筆ノ進ミ難キヨ サレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給ウ人ノ心ニ、

報イザルベカラズ

母ガ嘆キヲ、如何ニスベキ

先立チテ散ル不孝ノワレニ、今、母ガ悲シミヲ慰ムル途アリヤ

母ガ嘆キヲ、ワガ身ニ代ッテ負ウ途 残サレタリヤ

更ニワガ生涯ノ一切ハ、母ガ愛ノ賜物ナリトノ感謝ヲ伝ウル由モナシ


(冒頭一部抜粋)


3300名の乗員たちには それぞれ残してきた家族達がいます。

妊娠中の妻の身を案じる者、新婚生活2日めで召集がかかった者、

みんな生身の人間ですから、心に思うことは多々あったはず。


実は この作戦についても ・・・・


天号作戦ノ成否如何 仕官ノ間ニ激シキ論議続ク

必敗論圧倒的ニ強シ


(中略)

米軍ノ未ダカツテナキ慎重ナル偵察

情報ニヨリ確認セル如ク、沖縄周辺ニ待機セル強力カツ大量ノ機動部隊群


(中略)

提灯ヲ提ゲテ ヒトリ闇夜ヲ 行クニモ等シキ劣勢トイウベシ

豊後水道ニテ逸早ク潜水艦ニ傷ツカン

アルイハ途半バニ航空魚雷ニ斃レン(青年仕官ノ大勢ヲ占メタル

コノ予測ハ鮮カニ的中セリ)



・・・・・確かに、途半ばにして、斃(たお)れてしまったわけですが

そんな中で、 白 淵 大 尉 という方の 発言が 吉田氏の記憶に強く残り、

仕官たちの論戦を収める事ができました。


「 進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ

日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジスギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ

本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル ソレ以外ニドウシテ

日本ガ救ワレルカ 今、目覚メズシテイツ救ワレルカ

俺タチハソノ先導ニナルノダ

日本ノ新生ニ先駆ケテ散ル マサニ本望ジャナイカ 」


(一部抜粋)



そうして、4月7日午後12時32分、「 敵機ハ百機以上、突込ンデクル 」



戦闘開始です。



堅牢堅固ナル対空電探室 六畳間大、四周ニ鉄壁ヲメグラセルモ、

真二ツニ裂ケ、上部半バヲ散失ス

大斧ニテ竹筒ヲ叩キワッタル如キサマナリ 直撃弾、斜メニ深ク抉リ込

ミ撃発シタルカ


(一部抜粋)


しかし、これはまだほんの序の口でした。

その後、魚雷が左舷に命中しますが、大和ご自慢の対空砲火は 射 撃 を

目 測 に 頼 る
ため、周囲の厚い雲に 阻まれて使えず・・・


アメリカ軍の巧妙な作戦で 集中的に魚雷を左舷に命中させられた大和は

中排水システムの 限界を超え再度傾き 体勢を立て直すこともできないままに


傾斜復旧不能------沈没確実-----作戦挫折-----死ノ到来 

連想ハ瞬時ニ結論ヲ掴ム


(一部抜粋)


14時22分、横転、大爆発を起こして沈没・・・・・


この沈没前後の吉田氏の描写は息詰まる迫力があります。


氏は負傷はしましたが、辛うじて沈没の際の渦にも巻き込まれずにすみ

漂流中に 駆逐艦に救助されました。


この作品は以下のように終わっています。


徳之島ノ北西二百哩(マイル)ノ洋上、「大和」撃沈シテ巨体四裂ス

水深四百三十米

今ナオ埋没スル三千ノ骸(ムクロ)

彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何


(一部抜粋 最終末部分 フリガナを付けました)


なお、爆発時の火柱は高さ2000メートル、煙は遠く鹿児島からも

観測できたそうです・・



さて・・・私たちは この作品を ど う 読 む か ・・・・


吉田氏 御自身は昭和27年版の後書きの中でこう語っておられます。

発表した当時、戦争肯定の文学であり 軍国精神鼓舞の小説ではないかとの批判もあった、と。

けれども、吉田氏は この作品に「 戦いの中の自分の姿をそのままに描こうとした

「 若 者 が 最 後 の 人 生 に、何 と か 生 甲 斐 を 見 出 そ う と 苦 し み、

そ こ に 何 も の か を 肯 定 し よ う と あ が く こ と 」
こそ

当時としては自然ではないかと。



前にもお話したと思うけど・・・

現 代 の 法 律 や モ ラ ル で 過 去 を 裁 く こ と は で き ま せ ん


あなたなら御理解いただけると思うのですが、

何か事件が起こった 後 に な っ て か ら な ら 何 と で も 言 え る のですからね。


また、当時の 彼らの状況としては 死ぬと分かってはいても逃げ出すことは出来なかった・・・

という事もお忘れなく、ね。



また、実際に 戦争に従事された方々からも教えて頂きましたが、

内地(日本)に家族を残して従軍した場合、その家族を守るためにも

自分が頑張らなければ!という気持ちが大きく、とても「イチ抜けた」と

逃げる気分にはなれなかったと・・・


この作品の白眉はなんと言っても、白淵大尉の発した言葉でしょう。

自分たちの死が 敗戦後の日本のためになるように 一度滅びた上で

未来の日本が 自分達の死を無駄にせず 生まれ変わって素晴らしい国

になって欲しい
・・・そういった意味ではないかしら・・・・・



水深四百三十米

今ナオ埋没スル三千ノ骸

彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何


(終末部分 一部抜粋)


乗組員3300名余りの 9割以上の ご遺体が今なお海に 眠っています。



今日は随分と長くなりましたね。 重苦しい気分になったらゴメンね。

それでは、また・・・・・



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2013年04月05日

「 日本癌学会創立の日 」に読む 『 おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒 』 by 江國 滋


こんにちは、今日も来て下さってありがとう。

4月5日は「日本癌学会創立の日」です。


このタイトルを見て これって 俳句なの? と思われましたか?

そう、俳句そのものが本のタイトルになっています。

そして、この俳句は・・・そのまま 著者の 辞世の句になりました。


はい、今日の 読書は 『 おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒 』

著者:江國 滋   新潮社  新潮文庫



著者の江國 滋氏( 1934〜1997 )は 随筆家であり 演劇評論や 俳人としても

その才を認められていた方でした。


作風は軽妙にして洒脱、『 阿呆旅行 』などの紀行文や、平成元年には

乱れた日本語を一刀両断する『 日本語八ツ当り 』がベストセラーになりました。


う〜ん・・・こう書いても“ 過去の人 ”という印象 になってしまいますね。


あなたは、この江國 滋氏を 御存知でしたかしら?

本は読まなかったけれども、何かの雑誌でコラムやエッセイを読んだ事があるとか

また、俳句のお好きな方なら、日経新聞の「 日経俳壇 」の 選者 を長く

務めておられた方なので、そちらの方で名前を聞いたことがあるかも?


いや、今では もっと簡単に 江國氏を紹介する方法があります。

あなたも、“ 江 國 ”という姓で 多分気がついておられるかもしれませんが

この方は、作家の 江 國 香 織 氏 の お 父 さ ま なんですよ。


父親がよく 江國氏の随筆を読んでいたので、自然と私もなじむようになりました。

御家族の事もよく出てきますので、二人のお嬢さんたちの名前も覚えてしまいましたよ。

随筆中に、よく「 香織が・・」「 香織が・・」と名前が登場しましたしね。

もちろん、妹さんの 晴子さんのことも。


なので、今でも 江國香織氏といえば、あの江國サンのお嬢さんなんだ

というイメージがあります。

江國 香織氏の整った目鼻立ちはお父さま譲りかもしれませんね。


随筆と小説、また性別の差はありますが 作風は全くお父さまと似てはいません。

親子でも 人格やキャラクタは全く別物なので当然とは言えますが・・・

ちなみに、阪神タイガースファンは お父さま譲りみたい。家風かな?


最近、江國 香織氏のエッセイ『 や わ ら か な レ タ ス 』を読了したばかりですが、

独特の感性 そして育ちの良さを感じさせる 眼差しは心地よいものでしたよ。

食に関する氏のこだわりも 興味深かったし、

涼やかできれいな 日本語を書ける作家に成長したと思うなー。



いやいや、お嬢さんの話はもう止めなければ・・・・・


『 おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒 』には 「 江 國 滋 闘 病 日 記 」という

サブタイトルが付けられています。


1997年( 平成5年 )2月5日の日付から始って、同年の7月16日で御本人が

記された分は終わっています。7月17日から7月31日までは 奥様のお話を

元にして 病状や 御本人の言った事が 記されているのですが・・・・・



体調不良が続き、念のために受けた検査の結果、食道ガンと宣告された

江國氏は、病床で 克明な日記を 綴っておられました


日記だけではなく、闘病しながらも俳句作りに 励むことを宣言。

何かを考え始めると嫌でも「死」に行き着いてしまうので 敢えて

闘 病 俳 句 を創り続けたいと望んだ末のことでした。


氏の俳句ノート& 闘病 日記は 何と大学ノート 11冊分!

そして 療養をテーマとした俳句が約 500句・・・

この本は 江國氏が残した日記と俳句で構成されています。


残 寒 や  こ の 俺 が こ の 俺 が 癌             (滋酔郎)


“ 滋酔郎 ”は 江國氏の俳号です。

そして 国立がんセンターに入院、検査、3月4日に手術と決定します。


カーディガン ナースはみんな やさしくて        (滋酔郎)

春ともし 遺書を書かうか 書くまいか          (滋酔郎)


10時間以上にも及ぶ大手術でした・・・

食道のほぼ 全部( 前に胃を切除しておられるので )胃の残り部分を摘出 

大腸の一定部分を 引っ張り上げて 食道の代替にする手術でした。


その後はICUへ。一時の危険な状態から脱して・・ICUのベッドで

仰向けのまま 俳句と日記のメモをつけ始めます。


春暁や 入院死だけは してたまるか           (滋酔郎)


手術後は水も飲めないし 食事も出来ない状態がしばらく続きます。

そして手術後の猛烈な痛み・・・四月に入って


死神に あかんべえして 四月馬鹿            (滋酔郎)


病院の会計から3月分の医療費請求書が届けられますが、 〆て

171万5330円也・・・ガンはお金のかかる病気なんですよ・・・・


夜寒の夜 考えている銭(ぜに)のこと          (滋酔郎)


しかし、手術跡がうまく癒着せずに 改めて手術となりました。

これでようやく、一段落と思いきや・・・・・

5月下旬、ガンが頸部リンパ節に転移していることが分かりました。



目 に ぐ さ り 「 転 移 」 の 文 字 や  夏 さ む し         (滋酔郎)

梅雨冷えの 奈落の底の 底思ふ             (滋酔郎)



そして6月、まだ最初の手術の 癒着も充分ではないままに 

新たに 放射線治療が加わります。


放射線に 最後の願ひ 託す夏              (滋酔郎)


肩や腕の猛烈な痛み、手術後の痛みは取れず、

この頃から痛み止めにモルヒネが投与されるようになりました。


河骨や 骨まで癌に 愛されて              (滋酔郎)



このまま順調に行けば外泊も出来るかも?と期待していたところ

ちょっとした事で 右腕の上部が 骨折( 剥離骨折 )していることが分かります

放置しておくと、いつ何時ポッキリ折れるか危険な状態なので

補強する為の 手術が必要とか・・・


4回目の手術が7月1日。病名は 上腕骨病的骨折−-- 癌 の 骨 転 移 との事

この後は、痛みは続いても 病状が一旦落ち着いたので、7月19日には退院できたのですが

肺炎を 発症して再び入院・・・・・



そうして、8月8日、最後の句を 原稿用紙の裏側に書き付けます。

“ 敗 北 宣 言 ”と前書きをつけて・・・・・


お い 癌 め 酌 み か は さ う ぜ 秋 の 酒            (滋酔郎)


その後、8月10日に永眠。享年 62歳でした。



4人に1人がガンにかかると言われているそうですが、あなたの周囲にも

ガンでお亡くなりになった方はいらっしゃるでしょうか?


私にも 家族や友人知人 何人もガンで亡くしていますので、この作品は

とても他人事とは思えない気持ちで読みましたよ。


単なる闘病記、というだけでなく 一流の随筆家である江國氏ならではの

“ 作 品 ” に仕上がっている所が 凄い・・・


しかも、要所要所に 適切な季語を 踏まえた俳句を入れながら。

ガンを宣告された心境から、覚悟を決めて受け入れ、少しずつ気持ちを

整理していくプロセスをしっかりと 読み取れることができました。

それだけに、転移を宣告されたときの 心境の痛ましさもよく分かるのです。



最後の句に 敗北宣言と前書きをつけたのは・・・もうダメだ、という気持ちではなく

江 國 氏 一 流 の ユ ー モ ア の 表 現 であると 私は信じています。 



長くなりすぎるので 今日はこの辺で終わりますけれど

暗い気持ちにさせたら ごめんなさい。

それでは また・・・


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2013年03月28日

「 にわとりの日 」に読む 『 あなたみたいな 明治の女 』 by 群 ようこ


こんにちは、また来て下さってありがとう。

3月28日は「 にわとりの日 」です。


日本養鶏協会が 毎月の28日を「にわとりの日」に制定。

それでは、にわとりが登場するお話を・・・・・



はい 今日の読書は 『 あなたみたいな 明治の女 』

著者: 群 ようこ  朝日新聞社   朝日文庫


( 注:“ 女 ”には “ ひと ”とルビがふられています。)



著者は あなたも 多分ご存知の 群ようこ氏です。

最近では 映画 『 か も め 食 堂 』 の原作で 知名度が上がったかな?


派手なベストセラー作家とはいえなくとも、根強い 固定ファンをお持ちの方。

肩書きは作家・エッセイストなんだけど、 自分としては、

この方はエッセイ(読書エッセイ等)の方が お上手ではないかと考えています。


はいはい、異論は認めますよ〜


また、群氏のお得意ジャンルとして外せないものに 評 伝 があります。


『 贅 沢 貧 乏 の マ リ ア 』 は 森鴎外の長女・ 森 茉 莉 (1903〜1987)を

テーマにしたものですが、群氏の評伝を読んで 森茉莉に興味を持って

読み始めた方も多いのではないかしら?



群氏は文学賞のようなものは 受賞してはおられないようだけれど(多分)

彼女には、そんな賞は必要ないと思うし(良い意味で、ね)

第一、賞を貰わないとやっていけないという作家ではないから。



作家にとっては、読者からの支持が 一番の賞だと思うしね。

多分、御本人も欲しがってはおられないような気がするなぁ。

まあ、くれるのなら貰っておきますというスタンスかもしれないけれど・・・




賞だけは、やたらと貰って且ついろいろな文学賞の 審査員をやっていて、

その癖 まともな読解力もなく ピントのずれた 批評をしている

おセレブ w 気取りの作家さんもいるから・・・まあ、誰とは言いませんが ww




おっと いけない・・・話を元に戻しますね。



さて、この作品集は、評伝集です。

タイトルに、明治の女(ひと)とあるように、明治時代に生きた

8人の女性( 有名・無名の )たちの評伝です。



で、その中で 取り上げられている一人が

高 群 逸 枝 (1894〜1964)

社会学者、というよりは民俗学者と呼んだほうがいいかな。


著作としては『 母系制の研究 』や『 招婿婚の研究 』などの 女性史ものが多い。

「青踏」の平塚雷鳥とも親交があり、女性運動に携わってきた方。


昔々の若き日に、ほんの少〜しだけ高群逸枝の『招婿婚の〜』を

読んだことがあるけれども、もう忘れてしまった・・・

レポートを作成するための資料としてチョット齧っただけだし。



さて、高群 逸枝は 熊本県出身で、父親は小学校の校長先生。

父親の影響や勧めもあってか 師範学校に入学したけれど 病気で1年で退学。

その後は普通の女学校に転入して卒業しています。

学歴といえば、それだけ。


もちろん、進学率の低い戦前、ましてや女子の場合は 

女学校に入学する人も少なかったけれど。



ただ、仕事の功績を考えれば もっと高等教育を受けたように思っていたので・・・

つまりは独学で独自の研究を成し遂げた人なのね。


「 世 間 並 み こ の 言 葉 呪 わ れ て あ れ 」と家制度を 強烈に批判した人でもあります。



群氏は、高群逸枝を採り上げるにあたり、注目したのは 彼女が

なんと「 鶏 日 記 」をつけていたこと ww

「鶏日記」といっても、単なる 飼育日誌ではなく、あくまでもペットとしての「 鶏日記 」・・・



そう、高群 逸枝は鶏をペットにしていたの。



なので、この評伝集の中でのタイトルは


高群 逸枝 『 愛 鶏 日 記 』 www



何となく 虫が好かない人でも、その人が 動物好きだとわかると、

ちょっと見直すことがある。


また、無口で 無愛想な男性が、飼い犬や飼い猫に対して、目尻を下

げて話しかけているのを見たりすると、へえっと驚いたりする。


( あなたみたいな明治の女:高群逸枝 より冒頭抜粋 )



あー、分かります分かります。こういう気持ちは。

群氏は “ しいちゃん ”という猫と同居中の 愛猫家ですから、

こういう動物好きな人には親しみを覚えるのでしょうね。



さて、群氏は古書店の目録で高群逸枝の全集を見つけて購入、何気なく

見ていたら 日記・随筆の中に『 愛鶏 日記 』を見つけたそうです。



高群逸枝夫婦がヒヨコを飼い始めたきっかけは、タンパク質の補給のため。

鶏を飼って新鮮な卵を産んでもらうためだそうです。


そういえば昔は、結構 普通の家でも庭で飼っているお家が多かったなぁ・・・

卵はお店で買うと(当時は)高価だったからね。



鶏を飼おうと提案したのは夫の 憲三氏。逸枝は手間がかかると賛成はしなかったようですね。

丁度そのころ『 招婿婚の研究 』を書き出した頃で多忙だったし。

けれども夫は逆に、逸枝にとっては生き物を飼う事が精神的に良いのではと考えたみたい。



昭和25年3月21日、お隣の娘さんの世話で白色レグホンのヒヨコが1羽

高群家にやってきました。このとき 逸枝は56歳。



で、その日のうちにこの 鶏 に 名 前 を 付 け ち ゃ っ た の よ

あ〜あ、ダメダメ、名前を付けたら・・・情が移っちゃうんだよね。

しかも、名前が「ブーコ」だよ、 「ブーコ」!



それを「ブーコ」と名付けるところから、

二人の 生き物に対する気持ちがあらわれている


(一部抜粋)


ブーコは雌鳥ですから、卵を産んでくれます。


ブーコが初めて生んだ卵を、二人してうれしく感動して眺め、そして

「 ブーコ給与の 卵やき 」を作る。卵を生んでくれるブーコ。

逸枝は 仕事の合間を縫って、鶏のことを日記に書きつけた。


(一部抜粋)


元々 高群夫婦は 動物好きだったようですね。

( 二人の間には、息子が一人いたのですが死産でした )



で、このブーコだけではなくもう1羽飼う事になります。

今度の鶏の名前は「プーコ」  さらには「ノンコ」 ww


後になっては「タロコ」に「ジロコ」・・・笑ってはいけませんよ ww



かつて 逸枝は 有島 武郎とある女性との 情死事件 に関して、

美化されたり 哀悼の言葉を受 けたりしたことについて、


「 世 界 か ら 馬 鹿 が 一 人 減 っ た 」


と書いたという。確固とした自分の意見、自意識 を持ち、

学者として 十何年も調査を続け、女性史に関して誰もができない

研究をしている 彼女の本来の姿である。

しかし、ブーコちゃん、プーコちゃん、ノンコちゃんと鶏に優しく

呼びかける彼女もまた、高群 逸枝なのである。


(一部抜粋)



ここを読んで、私は 内 田 百 (1889〜1971)を思い出しました。

夏目漱石 門下にして 当時としては最高のインテリ先生も、

ペットのには弱かったようで ww


『 ノ ラ や 』 は涙なくしては読めない 猫 好 き の 必 読 書 ww ですから。



犬であれ猫であれ、はたまた鶏であろうともペットの可愛さは同じ事。

第三者の目からみれば愚かとしか言いようがない事でも 御本人は大真面目です。

人間よりは 寿命の短い鶏たち、逸枝は亡くなった鶏 の供養も、

人間と同じようにきちんとすませています。 なんと、お葬式まで・・・

友人からは 弔電まで届いたとか・・・それ程可愛がっていたのでしょうね。



特に子供のいない夫婦の場合、生き物が子供のかわりになっている

のではないかといわれることがある。


(中略)

子供とはまた 別の存在 だと私は思う

(一部抜粋)

子供はどんどん成長するが、生き物は年をとっても、飼い主の手から

離れるということはない。子供はそのうちに自立していくが、生き物は

そうはいかない。生まれてから亡くなるまで、責任を持って 面倒を見なければならない。



(一部抜粋)



高群逸枝は 1964年の6月7日に没しましたが、鶏たちとの関わりについて こう記しています。



< けっきょく私はおぼれたけれど、彼女たちと十数年ともに生活して


得るところがひじょうに多かった >


(一部抜粋)


そうか、頭の良い女性だけに 自分自身が “ おぼれた ”という自覚は

ちゃんと持っていたわけですね w



逸枝は、鶏たちとの関わり合いについて、

< 愛 は 理 屈 で は な く 存 在 で あ る >と書いている。


(一部抜粋)


愛は 理屈ではなく 存在である・・・・・

群氏は 高群 逸枝のこの言葉を 的確にキャッチしました。


まさしく、人間とペットたちとの関係を凝縮したような言葉だと

感じさせる一文じゃないかしら?




『 あなたみたいな明治の女 』には 他に7人の女性たちが取り上げられていますが、

いずれも存在感のある女性ばかりです。


印象的だったのは 森鴎外の母親

良妻賢母を絵に書いたような母親ではありましたが

嫁姑 問題に悩まされた人 でもありまして・・・



あとは小林信子(1873〜1906)という 普通の主婦の 日記が 興味深かったかな。

明治時代の サラリーマンの妻 として生きた方なのですが、

当時の東京の 中産階級の暮らしぶりが 具体的によく分かります。

日記は、息子さんが両親亡きあとに見つけて出版したものとか・・・・・



それでは、今日はこれでおしまい。

また明日ね。



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